オールナイトニッポン 2010 年代

吉田とオールナイトニッポンの関係は深く、デビュー後の1970年代、1980年代、1990年代、2000年代、2010年代とそれぞれの年代で、オールナイトニッポン名義の冠番組でレギュラーを担当してきた。 オールナイトニッポン(ann)とはニッポン放送をキー局に全国で放送されているラジオの帯番組である。 1967年から半世紀以上放送されている長寿ラジオ番組の1つであり、ラジオに一切興味なくてもなんとなく名前は聞いたことがあると言う人が多いほどその知名度は非常に高いと言える。
シンガー・ソングライター、吉田拓郎(73)が、4月10日から月1回のレギュラーでニッポン放送「吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」(金曜後10・0)をスタートさせることが27日、分かった。 昨年12月と今年2月に放送した特別番組が、満を持してレギュラー化されることになった。 拓郎とオールナイトニッポンの歴史は長く、デビュー後の1970年代から2010年代まで、それぞれの年代でオールナイトニッポン名義の冠レギュラー番組を担当。 今回で20年代が加わり、実に6つの年代でのラジオのレギュラー番組の担当を記録するなど唯一無二の存在となった。 初回放送では次のライブツアーへの意気込みや演奏曲について考えていることなど音楽活動を発信し続ける拓郎の“今”が凝縮された内容になりそう。スタジオには愛用のギターも持ち込まれる予定で、演奏が披露される可能性もありそうだ。 今回は、1980年代の「オールナイトニッポン」(ニッポン放送)を取り上げます。 スタート当初の「オールナイトニッポン」番組スタートは1967(昭和42)年10月2日。首相は佐藤栄作、巨人がV3、「巨人・大鵬・卵焼き」。ビートルズが世界を席巻 ※当サイトで掲載している画像や動画の著作権・肖像権等は各権利所有者に帰属します。ID:5505今回は、1980年代の「オールナイトニッポン」(ニッポン放送)を取り上げます。  番組スタートは1967(昭和42)年10月2日。 首相は佐藤栄作、巨人がV3、「巨人・大鵬・卵焼き」。ビートルズが世界を席巻して日本でGSブームが起こり、ツィギーのミニスカートが流行り、「天才バカボン」「パーマン」「あしたのジョー」「ルパン三世」が連載開始した年。 そして「団塊の世代」が大学生だった時代です。 放送時間は現在と同じ月曜日〜土曜日の深夜1:00 – 5:00。 この番組は当時激しさを増す“受験戦争“の真っ只中にいる中・高校生、そして大学生をターゲットに、 当時の番組冒頭のフレーズは サブタイトルの ビートルズやツェッペリン、ジミヘンなどの洋楽や日本のフォークソングなど最先端の音楽をふんだんに流し、1年も経たず若者層に絶大的な支持を受ける看板番組に成長。TBS「パックインミュージック」や文化放送「セイ!ヤング」と並ぶ、深夜の人気番組になりました。 スタート当初のパーソナリティ(当時はDJと呼ばれた)は、全員が「ニッポン放送の局アナ」でした。  もはや「オールナイトニッポンのテーマ」として認知されているあの曲は「BITTERSWEET SAMBA(ビタースウィート・サンバ)」です。 私の中学の給食時間になぜかこの曲がかかり、リスナーの友人達は一様に「昼間にかけるなよ」と笑いが起こりました。   1969年10月、土曜日担当にアナウンサー出身のそして1970年代中盤から1980年にかけて、  この時期には「オールナイトニッポンのパーソナリティが若者世代の人気者の証」とブランド化しました。  そして、1979(昭和54)年に 1980年代に「オールナイトニッポン」は第2期黄金時代を迎えるのです。   1975(昭和50)年、ニッポン放送のディレクターが「新宿のバーでデタラメな外国語を話す面白い男がいる」との噂を聞きつけ発掘したのが、デビュー2年目のタモリさんでした。 当時のタモリさんはセンター分けにアイパッチ姿、「中洲産業大学教授」を名乗り、イグアナのモノマネやデタラメ外国語(ハナモゲラ語)の4カ国語マージャンなどで笑いをとる“謎の芸人“でした。 タモリさんは1976(昭和51)年から「オールナイトニッポン」木曜日のパーソナリティを務め、当時交友のあった その後、タモリさんは1982(昭和57)年に昼の帯番組「笑っていいとも!」の司会に抜擢され、それがきっかけで降板することになりますが「オールナイト」への愛着は深く、「いいとも」放送開始から1年後の1983(昭和58)年までパーソナリティを務めました。  私が「オールナイトニッポン」を聴き始めたのは中学1年(1983年)の夏休み。 ラジカセを買ってもらった当初はカセットばかり聴いていましたが、この頃にラジオの面白さに目覚め、「大橋照子のラジオはアメリカン」(TBS)や、地元福岡のRKB、KBCの深夜番組を聴き始め、その後に放送される「オールナイトニッポン」にたどり着きました。     中でも私は、当時の山口良一さんは、欽ちゃんファミリーとして「欽ドン!良い子悪い子普通の子のヨシオ」「イモ欽トリオ」としてブレイク中。大のプロレスファンであり、番組中に「闘魂スペシャル」として新日本プロレスの 金曜夜8時の「ワールドプロレスリング」からの深夜の「山口良一のオールナイトニッポン」流れが、当時の新日本プロレスファンの間で確立しました。 山口良一さんは1983(昭和58)年に 私はこの番組とアルバムのカセットテープをいまも所蔵しています(笑)     この中ではなんといっても、とんねるずはこの時期、文化放送「新てるてるワイド 吉田照美のふッかいあな」内で「とんねるずの二酸化マンガンくらぶ」という10分帯コーナーを担当していましたが、「オールナイトニッポンをやりたい」と熱望していたそうです。 1983(昭和58)年「オールナイトフジ」、1984(昭和59)年「夕焼けニャンニャン」で既に破竹の勢いにあったとんねるずですが、ようやく来たオファーは「2部(曜日不明)」。 これに激怒した2人は当て付けにTBSラジオの深夜番組のレギュラーに内定をもらいますが、慌てたニッポン放送から「火曜日1部」のオファーをもらい、スタートしたという経緯がありました。 当時の「とんねるずのオールナイト」は120分カセットテープに録音して聴き逃した友達の間で貸し借りされる程、絶大な人気がありました。    世の中の「ロックブーム」を受けて、バンド系ミュージシャンが続々と登場。中でも超人気アイドルであるKYON2が深夜番組、しかも生放送のパーソナリティを務めるというのは異例で、同期や後輩アイドルも続々とゲスト出演。中高生男子の熱狂的な支持を集めました。   80年代のオールナイトニッポンを語る上で、1981(昭和56)年からたけしさんは「この番組はナウな君たちの番組ではなく、完全にオレの番組です」と宣言。 タブーなしの毒舌、速射砲のようなスピード感、時事ネタから社会問題、芸能界裏話から下ネタまで、幅広い内容のフリートークを展開し、影響を受けた後のお笑いタレント、芸能人は数知れず。芸能関係のみならず文化人など、ファンを公言する人は無数に存在しました。 深夜にも関わらずニッポン放送前には出待ちのファンで溢れ、弟子志願者が続出。これが後の「たけし軍団」につながっていきます。常連投稿者である「ハガキ職人」という文化もこの番組が発祥と言われています。 ちなみに、同じ木曜日の2部を たけしさん曰く、オールナイトニッポンを引き受けたのは「(放送作家の) スタート当初はたけしさんのフリートークの危険性から生放送ではなく録音、さらにはご本人の希望で綿密な台本とリハーサル付きでのスタート付きだったのだそうです。 しかしすぐに生放送、フリートークになり、そこから過激な言動で数々の事件、伝説を残しながら「たけし信者」と呼ばれる熱狂的なフリーク達の絶大な支持を集める超人気番組となりました。  事件後、局内では当然の如く番組打ち切りが協議されますが、当時のニッポン放送トップである 事件後の初放送は 番組終了は1990年12月。文字通り、80年代と共に「ビートたけしのオールナイトニッポン」は惜しまれつつ、その幕を下ろしたのでした。  「深夜で音声のみ」の治外法権的な、自由で、顔も知らない孤独な“同士“が集う場所。それが、今なお続いている「オールナイトニッポン」の魅力だと思います。 拓郎とオールナイトニッポンの歴史は長く、デビュー後の1970年代から2010年代まで、それぞれの年代でオールナイトニッポン名義の冠レギュラー番組を担当。



吉田拓郎とオールナイトニッポンの関係は深く、デビュー後の1970年代、1980年代、1990年代、2000年代、 2010年代とそれぞれの年代でオールナイトニッポン名義の冠番組でレギュラーを担当してきており、今回の 2020年の『オールナイトニッポンgold』のレギュラー担当により、2020年代も担当す …