多忙な日々で、身の回りを気遣うこともできず髪はいつもボサボサ、夏目漱石好きということもありしゃべり口調は古風といった、ちょっと風変わりなタイプ。そんな一止と榛名が暮らすアパート「御嶽荘」にはほかにも個性的な面々が・・・。迷い、苦しみながらも人と真っ直ぐに対峙するこ キーワード・タグ 『神様のカルテ』(夏川草介) のみんなのレビュー・感想ページです(1590レビュー)。作品紹介・あらすじ:神の手を持つ医者はいなくても、この病院では奇蹟が起きる。夏目漱石を敬愛し、ハルさんを愛する青年は、信州にある「24時間、365日対応」の病院で、今日も勤務中。 「神様のカルテ」シリーズは、夏川草介によって描かれた医師たちの生活を綴った小説です。1作目の『神様のカルテ』は小学館文庫小説賞を受賞し、2010年の本屋大賞2位も獲得。その後続編が発表され、大ヒット作となります。また映画化もされて、人々に愛される医師物語の決定版となりました。夏川自身、現役の医師である傍ら小説の執筆に励みました。『神様のカルテ』は処女作であり、彼はこのほかの作品はほとんど残していません。夏川草介はペンネームで、それぞれの文字を著名な作家からとっています。「夏」は夏目漱石からとっており、草介の「草」は漱石の作品『草枕』からとったそうです。本作の主人公も夏目漱石の大ファンで『草枕』を暗唱できるという設定がありますが、これは作者自身がモデルになっていることを表していますね。栗原一止(くりはらいちと)は地方病院で働く内科医です。地域の患者を一手に引き受けるこの病院は、常に患者が何らかの救いを求めており、一止をはじめ医師たちは激務をこなしていました。忙しい彼を支えているのは山岳写真家の妻、榛名(はるな)です。彼女は一止にとって癒しとなる大切な存在で、一止は彼女の淹れるコーヒーを世界1だと感じています。ある日、一止に大学病院からスカウトの声がかかりました。今よりも良い労働環境で最先端の医学について研究できる条件に、彼の心は揺れ動きます。同僚の砂山も、より良い環境で働ける選択に賛同してきます。しかし大学病院は大規模だからこそ、もはや救えない患者に対する対応は冷たいものです。一止は病院で出会った癌の末期患者をきっかけに、自身の医師としての生き方に向き合います。一止と榛名の住む御嶽荘の住人に、一止が学問について語った名言です。「神さまのカルテ」シリーズに登場する、一止をはじめ病院で働くスタッフたちは情熱をもって患者のことを想い、一生懸命に働いています。彼らの生き様から私たちが学ぶことが多くあります。一止が末期癌患者への処置について悶々と自問自答し、葛藤するシーンです。病院は命を扱う場所で、医師と患者の間では命の尊さを考える会話がやりとりされます。彼は「正しさ」を常に考えており、患者にとって最も幸せであることを鑑みた行動をとっているのです。その姿勢に感銘を受けながら、彼の問いに改めて考えさせられます。地方病院での勤務を続けることを決めた一止は、相変わらず忙しい日々を送っていました。ある日、大学生時代に期待の星と言われていた同級生の辰也が、転勤で東京の大病院から一止のいる病院へとやってきます。辰也は大学時代と豹変していて、仕事は仕事と割り切り、定時で帰る日々。患者の容態よりも自分のプライベートの時間を優先しています。そんななか、自分の働き方にポリシーを感じながら頑張る一止と、彼を支え続ける榛名のあいだに子供が生まれました。改めて家族という存在の大きさを感じる一止ですが、職場で自分の救いを求める患者がいればそちらを優先せざるを得ない自身の働き方は譲れません。家族か、仕事か。大きな選択肢を前に、彼は再び自身の医師としての在り方を考え始めました。これは彼が常に心にとどめているセオドア・ソレンソンの言葉であり、くり返し引用される名言です。セオドアはケネディ大統領のスピーチライターを務めており、この言葉はスピーチのタイトルにもなっています。一止は大学時代から引用していたこの言葉を、仕事の仕方について問うため、辰也に投げかけます。医師の仕事と対価を時間の天秤ではかれば、当然割に合わないこともあるでしょう。それでもなお、自身の良心にかけて恥ずかしくない行動をとり続けることを選択する姿勢が素晴らしいですね。人の命を預かる仕事をする者の覚悟を感じられる名言です。彼が正義を貫くために異例の対応をした後、「医者は患者の治療だけしていればいい」という言葉を事務スタッフから言われた際に発した名言。仕事を仕事として割り切ることについて問いかける強いメッセージです。一止は恩師である医師を癌で亡くした悲しみを持ったまま、病院務めを続けています。ある日彼の病院に、新しい仲間である小幡が加わりました。小幡は優秀な女性医師で、研究に打ち込みながら医師としての役割もまっとうするスーパーウーマンです。一止は彼女の姿勢を尊敬しますが、「治る意志を持たない患者は診ない」というポリシーに対しては疑問を抱きました。しかし彼女のポリシーには理由があり、一止に対して「偽善者」と言います。本当の医療とは何なのか?病んだ患者のそばに寄り添うことが医師の仕事なのか?一止は自分の信じていたものについて改めて向き合います。小幡が一止のことを批判しながらも、冗談めかして自分の秘密をほのめかすシーンの名言です。『神さまのカルテ3』では2人の知的かつ軽妙なテンポのやりとりが面白く、惹かれるシーンが多く登場します。小幡には曲げられないポリシーがありますが、それを闇雲に掲げるわけではない姿勢がなんともカッコいいです。小幡の強い対応に一止の正義は一時は崩されますが、それでもなお彼の中にもある正義を掲げるために、わずかな皮肉をこめて小幡に言います。彼女に決定的に欠けている点を指摘しているにも関わらず、「安堵」という言葉を使うところに一止の優しさとユーモアを感じさせます。「神様のカルテ」というタイトルに込められた想いが明かされる一編では、元国語教師の患者と一止のやりとりの中で、彼が本当に学ぶべきものが何なのかが見えていくプロセスが描かれています。患者のことを想い、真正面から向き合う一止という人を形成するでき事ともなった、エピソードゼロといっても過言ではないでしょう。元国語教師の患者が、読書によって得られる想像力は優しさに繋がるということを一止に解く名言です。一止は医師として、人として、どんな生き方がしたいのかを患者とのコミュニケーションの中に見出していきます。相手のことを想い、本当の幸福を想像すること、それこそが彼にとっての正しい道でした。この言葉は、やがて一止の医師としての生き方を決定づけることになっていくのです。榛名が登山で遭難したことを振り返りながら語った名言。どんなにつらい時でもひとりではない、と言ってしまうと少し偽善がかってしまいます。しかし榛名は自分の「思う」という主体性を示した上で、「かっこ悪い」という言葉を使って弱さを照らしてくれています。孤独に浸ることなく前へ進むよう読者に気付かせてくれる力強い言葉です。